八尾の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

大阪府八尾市歴史探訪
八尾市の概要
八尾(やお)市は、大阪都心部から20キロメートル圏にあり、大阪平野の東部に位置する住工商農都市です。聖徳太子や道鏡(弓削道鏡ともいう)のゆかりの地で、早くから鉄道が発達し、人口・産業の集中が進みました。府内屈指の工業都市であると同時に、野菜・花卉栽培などが盛んな近郊型農業都市の側面ももっています。市の南端を大和川が流れ、旧大和川水系である長瀬川や玉串川などの小河川も流れています。市の東部にある高安山をはじめとする生駒山系により、奈良県との府県境を形成しています。また、市の南部には八尾空港があり、航空自衛隊の駐屯地や民間の小型航空機に供用されています。

八尾のあゆみ
八尾地区は、旧分国では河内国に属しており、古代においては河内湖がこの付近まで広がっていたと考えられています。当時の八尾一帯は、物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされています。物部氏は物部守屋の時、蘇我馬子とこの一帯で戦い、敗れたために滅亡しました。

朝鮮半島での白村江の戦いで敗北した大和朝廷は、唐の侵攻に備えるために西日本で防御施設の整備を進めましたが、この時、高安山に高安城が築かれました。この城は長くその存在が確認されませんでしたが、昭和53年(1978年)に、地元の市民グループにより遺構が発見されました。

戦国時代から江戸時代初期にかけて、八尾一帯は度々合戦が繰り広げられる場所でした。中でも大坂夏の陣においては、北の若江(東大阪市)、南の道明寺(柏原・藤井寺市)と並んで序盤の激戦地となりました。江戸時代中期になると、それまで八尾市域を貫流して淀川水系と合流する流路を形成していた大和川の付け替え工事が行われ、堺方面に流れるようになりました。これにより、度々水害に悩まされていた状況が改善されると共に、大和川の付け替え後の川床は新田として新規農用地の開拓が進みました。川床跡の砂地は木綿栽培に適しており、大坂という消費地が近かったため、商品作物としての木綿の栽培や、農村工業としての紡績が盛んになり、全国でも有数の裕福な農村となりました。

明治以降は、大阪だけでなく八尾も綿糸生産で繁栄しましたが、次第に外国産の安い綿花の輸入を求める声が紡績業界に強まり、ついに輸入綿花の関税が廃止され、八尾の綿花栽培は大正末期までに急速に衰えていきました。その後は、綿を生産していた農家や工場がブラシ生産に活路を見出し、地場産業としました。現在では、歯ブラシの生産量が全国シェアの4割を占め、日本一の生産量となっています。明治22年(1889年)には大阪鉄道(現JR大和路線)、大正13年(1924年)には大阪電気軌道(現近鉄大阪線)が開通し、交通・物流の便が良くなったため、大阪近郊の手頃な通勤住宅地・工場地帯として発展していきました。

昭和23年(1948年)に、八尾町・龍華町・久宝寺村・大正村・西郡村の2町3ヶ村が合併し、八尾市が誕生しました。その後も合併・編入を繰り返し、人口は市制施行当時より20万人以上増加しています。八尾市は、大阪の近郊都市として、河内音頭のふるさととして発展しながら現在にいたっています。


八尾の名前の由来
その昔、西郷周辺(現在の山城町)に、一羽のウグイスが住んでおり、その声はたいへん美しく、聞く人を感動させていました。不思議なことに、このウグイスには尾羽根が八枚もあり、「八ツ尾のウグイスすとは、これはまた珍しい」と評判になりました。そして、そのウグイスがとまる木を「八尾木」と呼ぶようになりました。長い年月が過ぎて、そのウグイスはいなくなってしまいましたが、八尾木の名前が残り、いつしかこの村を『八尾』と呼ぶようになったと言われています。


八尾の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
歴史民俗資料館
住所: 〒581-0862
大阪府八尾市千塚3丁目180-1 [地図を見る]
電話番号: 072-941-3601
開館時間: 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日: 火曜日(火曜日が祝日の場合はその翌日)、祝日の翌日(ただし祝日の翌日が土・日・休日の場合は、その翌日以後の土・日・休日でない直近の日)、12月28日〜1月5日
入館料: 大人200円、高・大学生100円(※団体20名以上は半額)
※中学生以下、65歳以上の方、障害者手帳等を持つ方(介添人1人を含む)、学校園行事の引率者は無料です。







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